「学問からの手紙(宮野公樹・著)」を読んで
- 土田 亮

- 2019年9月19日
- 読了時間: 4分
更新日:2019年9月19日
唐突だけど、最近妙な思考が染み付いた。
どういうことだろうか?発端は僕のツイートからである。
つまるところ、「学問」や「研究」に対する各々の態度や理解は、自己と他者でそれぞれ温度差や解像度が違うし、それがどんな形であれ表出しても構わないのだが、その差を想像で補いすぎているのがどうもしっくりこない。
そもそもニーズって何だ。僕らはニーズに要請すべく研究しているのか?
きっとそうではないはずだろう。
もはや偶然僕やあなたは生きている間に目にした現象や事実に感動して、もっと知りたいと歩み寄り、共鳴しあったところに研究という表現方法で記述しているにすぎないとも思えてしまう。どうしてもその根本は分かちがたい出会いがある。それを僕らはどうにかして言葉に、論理に思いを込める。
とはいえ、もちろん、それぞれの学問や研究そのもの自体を否定してたり批判したりしているわけではない。客観的に現象や真理を把握し、次の問いを生み出していく。その絶え間ない連環は、自分の血肉と化し、いずれは思考や身体に生き様や自分の存在の認知、すなわち生と死の間にある存在意義(どう自分が役立つかという実存主義)として表象される。
これは京都大学・学際融合教育研究推進センターの宮野先生が言う学問とは「問い学ぶ」ではなく、「問いに学ぶ」ものであるということに結びつき得る。
宮野先生の新著「学問からの手紙」では、こう僕らに伝える。
「自分がやっていること、やりたいことは結局のところ何なのだろうか。大局的、歴史的、普遍的に見たなら、いったい何をやっていることになっているのだろうか。そもそも自分はなぜそれに関心を持ったのだろうか。」
「このように自身の関心や自分自身というものを自分の外から見つめるような目線。それが本当の意味で「考える」ということに他ならないし、そのように考えることこそが学問だと思うのです。」
なるほど、こうして考える「私」をメタに見つめることで、自分の立つ学問の足場を形成し、よく生き、よく死ぬための身体と思考が具現化される。より「私」を知ることになる。
しかし、それだけの営為に留まってよいのか。
そして、宮野先生は立て続けに次のように僕らに問う。
「興味・関心の追求だろうが、課題の解決だろうが、自分はそれをやりたい、それをしなければ自分ではない。そこまで考えつめたやりたいことの発生根拠こそを考えつめよう、学問であるなら。そうすれば、その起点はなんと素朴で弱々しく、とてもとても危ういものであるかと気づくでしょう。そしてまったく同時に、それは与えられた環境や他者との関連の中で生じたことにも気づくでしょう。では、問います。あなたのやりたいことはあなたのものですか?「あなた」がまず先にあるのか、「やりたいこと」が先にあるのか?そのやりたいことをなす容れ物としての「あなた」とはいったい何でしょうか?」
学問を想えば想うほど、自己の存在のか細さや危うさに気づかされてしまう。しかし、その気づきと同時に、結局は「主観でしかない覚悟」と「悟り」がか細さや危うさを容認しうる自己の存在の強固さを物語らせる。
相反するけれども、それこそが揺るぎようのない不断の、精神と肉体のはざまにある、私を駆動させる「学問」である。
始まりに戻ろう。
僕には、とある思考が頭に染み付いた。
それは端的に言えば、「学問とは何か?」「研究とは何か?」である。
でも、それに応答するには「私とは何か?」という一人称(=「私」)あるいは三人称(=「それ」)的な視点に立って、いま、ここで生きていかなければならない。何も文字通り必死に生きる必要はないけれども、投げ込まれた人生をどう生きやすく、どう豊かさをもたらすかを思考する。
そうすることで自分の内面から駆り立たせる「学問」のこだまが生まれる。つまり、それこそがやりたいことをなす容れ物である、まぎれもない連綿たる「私」をつくっていくのだろう。
そんな私に宿る豊かさを語りしめたくて、今大学にいて、学問に触れて、自由に考えている。
夏の終わる匂いを感じて、なんだかちょっとだけ自分が何と向き合わなければならないのかがわかった秋のはじまりに私は佇もう。
参考文献
・宮野公樹(2019) 学問からの手紙-時代に流されない思考-, 小学館, 215p.
日付感覚もわからないしがない大学院生が書いた、取り残された僕の夏の読書感想文でした。
もうちょっと学問の生き生きとした表情を見たい人は、下のブログを読んでそして2冊を買って是非読んでほしい。
























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