「宇宙を生きる(磯部洋明・著)」を読んで
- 土田 亮
- 2019年4月1日
- 読了時間: 8分

春休みで特にやることもないなと京都の鴨川あたりをうつらうつらした頃、三条の丸善書店を気の向くままにウロウロしていた。その時、私のメンターであった磯部洋明先生(京都市立芸術大学 准教授、メンターとは、私の所属大学院の教育制度の一つで、履修計画や進路に関して学生に応じて相談に乗っていただける先生みたいな感じ)の新刊「宇宙を生きる-世界を把握しようとする営み-(小学館, 2019, 219pp.)」が宇宙科学のコーナーの本棚にひっそりと佇んでいた。
私が今の大学院に入学する前から、先生がご異動するまでの在学期間、そして異動後も大変お世話になっている磯部先生なのだが、よくよく考えると先生が執筆された本を読んだことがない。正確に言うと、単著の本を読んだことがない(これまで先生の分担執筆出会った「宇宙人類学の挑戦」や「宇宙倫理学」はかじったことがあるが、まるまる先生ご自身が書いた本はこれが初めてである)と思った。
冒頭に書いたようにせっかくの春休みだし、特にやることもないのであれば、ここで巡り合ったのも何かのご縁ということで早速購入した。同時に、この本のシリーズで京大の宮野公樹先生の「学問からの手紙-時代に流されない思考-」も購入した。その書評も今度してみたい。
とりあえず、まずは、「宇宙を生きる」を読んで、という感じでライトに、大学院生2回目の春休みに、高校以来久しぶりに読書感想文もどきをしてみようと思う。
※ここからは著書の内容と個人的な感想が入っているので、内容を先に知りたくない人は最後の段落まで飛ばされたい。
およそ2時間で読み切った。
この本の冒頭にも書かれているように、磯部先生が「宇宙の研究をしている」と自己紹介の皮切りに話すと「ロマンがありますね」と言われることが多い(らしい、確かに私もそう思う)。
宇宙は防災や健康など(ここであえてこの二つを例に挙げているのは、市民講座などが多く比較的社会と結びつきが強いこと、市民の関心層がとりわけ高く参加する人も多いことからに起因する)と比較すると、アマチュアやファンの人がひとしきり多い。この本を手に取って読まれる人は、宇宙の壮大さや黄昏れ果て気づく孤独などを思い馳せる本だと思い期待して読了を目指すかもしれない。
しかし、本書に書かれているのはただ単にそういった宇宙に憧れ、ロマンに耽け入る話ではない。
読み終えて、まず、私が感じたことは「磯部先生ご自身の研究を踏まえて、自らが望む、あるいは、社会から望まれる学問観に対してどう考えるか」という洞察力である。私はこれにいたく感動した。
磯部先生は宇宙物理学がご専門で、特に、太陽面で起こる現象を物理学を駆使してその解明を行っている。この本のおよそ3分の1くらいは太陽と太陽面の現象について書かれてある。また、この本はその入門書であるため、とても平易に書かれており、専門外の人でも太陽の研究を行うにあたって何が問題で何が面白いかくらいはわかるような文章や写真が豊富にあり、太陽を専門にしない私でも楽しく読めたし、どこか物理学を使って世界の法則の一端を理解しようとする姿に私は羨望した。しかし、この本は同時に「入門!ガクモン」というシリーズを銘打って出版しているため、こうした物理学を用いて太陽の活動を解き明かすこと自体が何を意味し、学問とは何で、その学問の確立が私たちにどのように繋がりをもたらすのかを一般の人にも明示する必要がある(あるいは、明示してほしいと読者は考えるだろう)。
この点に関して、昨今の研究費活用の問題として国税や血税を使って、応用や実践などこれからの研究のイノベーションに資するような研究に振り分けるべきか、あるいは、その根本となる現象の発見やその解明と言った基礎研究に割り当てるべきか、ということも関連しており、本書でその議論も少し触れている。いずれも将来性や実用性を鑑みると捨てがたい。ここで磯部先生は本の中で、役に立つというのは、時間スケールも考慮した上でその恩恵を受ける私たちという主体は何で構成されているのか、それぞれが何に価値を置き、どういう社会を築いていきたいのかに気を払わなければならないと述べています。
こうした忌憚なき意見を述べる磯部先生の先見の眼差しには、これから学問を志そうとする私をはじめとする学生だけでなく、教養も深めたい人たちにもどこか奥底から揺り動かす深さがある。
また、著書を読んでいくにあたって研究者、あるいは、一人の人間としての磯部洋明先生の学問、つまり、科学的なツールを駆使しながら物事や法則を理解しながら、それが我々に何をもたらし意味するのかという「問い学ぶ」眼差しではなく、その叡智の積み上げから自らが何者であるかを省察するような「問いに学ぶ」ような生き様やセンスに尊敬した。
この本の中では、度々磯部先生がどうして宇宙に興味を抱き、大学時代に師のもとで知的好奇心のくすぐられるままに研究に励んできたか、そして、宇宙を学んだ者として、そこから何が示唆できるのか、これからどこへ向かおうとしているのか、という一つの現在の磯部先生ご自身の「生きたビブリオグラフィー」とも言えるシークエンスが垣間見える。重箱の隅を突き、おもろい発見を見出すことももちろん大切であるが、むしろのその重箱の外側や世界を見回してたくさんの謎やおもろさを発見し、人と共有したいという思いがところどころ文章に表われている。
実際、磯部先生は博士号取得後、PDを経たのち、京都大学の宇宙ユニットの専任教員として赴任し新しく総合宇宙学を開拓した。先生自らも他の研究者に対して飛び込み営業を行い、宇宙倫理学や宇宙人類学という新しい学問を萌芽し、人間が宇宙へ出て行くこと、そしてそのこと自体が人間にどう意味づけがなされるかも検討してきた。また、磯部先生もその実践としてフィールドワークを行い、長島愛生園(岡山県東部の瀬戸内海に浮かぶ長島に建てられた、日本で初めてのハンセン病療養所)の天文台を訪れ、ここで過去天体観測が行われていたことがそこにいた人たちにどのような意味や営みをもたらしたかも描いてきた。
これらの思考のシークエンスこそが、混沌とした宇宙は一体どういうところであるのかを何かより説明がつく方法を使って把握し、明らかにしていこうとする。まさにこの本の副題の意図する通りの「もがく営み」なのであろう。複雑な宇宙の様相から奇妙な人間や社会の有り様を往来する中で、先生自身が宇宙の中でどうすればよりよく生きることができるかを考えるという学問の立ち方は、業績をたくさん挙げようとか資金をたくさん手に入れようという、ある種あるべき研究者の姿とは異なり、どちらが正しい姿と問う以前に、ただただ一人の人間のとして敬服するばかりである。
だが、もちろん、この本を読んで私が全てに満足したわけではない。
第1の不満として、掘り下げたい(掘り下げるべき)議論がところどころあるが、それについて言及していない点にある。例えば、先にあげた所感の中で基礎研究と応用研究の資金配分について述べた。ここでも宇宙の研究は議論に巻き込まれざるをえない。その探求自体に意義もあるが、宇宙天気予報と言った現象を解明した上で私たちにより直的な便益や実用的な情報をもたらすような研究との間に何かが私たちの価値を豊かにするものがあるはずだと磯部先生は述べている。
ここについては、私としても感覚はわかるが、それはつまるところ、言葉にするならば何かを知りたかったのだが、その先の議論は書かれていなかった。万物の真理を探し発見をもたらすことと実利性を追求し私たちの生活に豊かさをもたらすことの間に何が潜んでいるのだろうか。(おそらく、この境界をもがいていくことで得られる「おもろい!」や「誰かに共有したい!(有名になろう、業績をあげようという意志に反する思い)と言った知的好奇心の耕しなんだろうな、と読んだ私は思うのだが、先生はどう考えているのだろうか。)できることならば、私もいつかその隙間を言葉にして議論してみたいと感じた。
第2の不満として、学問、研究、科学という本書の中で頻出する言葉の定義が揺らいでいることである。ただ、この点に関しては誰も定義することが困難であることを当の本人も重々承知している。熟読する上でさほどこうした定義の揺らぎに惑わされることはほとんどないが、どうしても読み手に対して言葉の定義の答えを委ねられ、意識してしまいそうになる。むしろ、それをあえて問うているようでもありそうだ。
この本だけでは、これら3つの言葉をうまく説明するのは難しいと思われるので、宮野先生の新刊「学問からの手紙」も読むと相補的に意味の理解が深まると思われる。
※ここからは読んでない人も読めるネタバレがない文章です。
さて、磯部先生と出会って、私は大学だけでない自然や歴史、文化の豊かな場所で様々な議論をしてきたが、この本を通して、よりその議論の意味や言葉の深さがわかる。そのリフレクションを通して私の琴線に触れる。防災学を学んでいる私であるが、その専門の違いがむしろ学問とは何か、より真摯に私に投げかけるように思われる。
宇宙研究を志す人だけでなく、宇宙を専門としない学生や教養を深めたい人にも是非読んでほしい一冊である。この本には、磯部先生の、宇宙に対する熱く、しかし、どこか遠い(まるで離見の見やアルキメデスの視点かのような)魂が宿されている。
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