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私の「こだま」:契機として表出する災害

  • 執筆者の写真: 土田 亮
    土田 亮
  • 2019年6月30日
  • 読了時間: 5分

灰色の窓の外では、激しい雨が降っている。

先週の水曜日、つまり6月26日に近畿地方では梅雨入りしたと気象庁が発表した(https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html 

※検索にかけて見たときの速報値は6月29日更新だった、最終閲覧日2019年6月30日)。

これは平年だと19日遅れ、昨年比だと21日も遅れているとのことだ。京都に住んで2年と3か月、肌感でも今年の梅雨入りは遅い、むしろ晴れの日が続いていたなと思う。

この週末は私の地元である九州に大雨警報が出ている。

実家や家族、友達、お世話になった人たちのことが心配だ。

今年の6月から水害・土砂災害の情報伝達、特にレベルの意味合いが変わった。

http://www.bousai.go.jp/oukyu/hinankankoku/h30_hinankankoku_guideline/index.html

まだまだこの仕組みの導入から社会に浸透して間もない。今後の我々や行政側の災害に対する態度はこれを契機に重要になってくるであろう(もはや重要視していなければならない)。

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こうして考えると、なぜ私は防災・減災(最近だと備災、縮災の概念も広まりつつある)のことを研究しているのだろうとふと考えた。

ちょっとだけ、私の災害に関する思い出、というか、私の中で常に響く災害の「こだま」を表に出してみたい。

宮崎県宮崎市にある私の実家は太平洋(宮崎では日向灘と呼ぶ)沿岸からおよそ8km離れ、海抜60mの位置に所在する小さな町にある。過去に都市開発のため山を切り開いて作られた台地である。

宮崎は毎年だいたい7月から10月にかけて頻発して台風が上陸する。幼少の頃はその都度、天気予報を見て、今朝の連絡網が回って全日休校の情報がくればハッピーだし、そうでなければしぶしぶ学校に行くこともあった。

しかし、その意識はある契機に変わる。

平成17(2005)年9月6日に上陸した台風14号(9月4日-6日までの総雨量600mmオーバー)である。

細かい情報は朧げではあるが、家族や親族、友達はほぼ皆無事で、家や学校に大きな破損はなかった。

しかし、地区全体が断水になってしまったのである。理由はこの地区は台地であり、水は台地の下の浄水場から汲み上げてきた。だが、この台風により川の支流傍にあった浄水場の一部が冠水してしまったため、水のライフラインが止まってしまったのである。

この修復におよそろ1ヶ月強かかった。地区の飲料水や飲み物は一瞬にしてなくなり、風呂も料理、トイレもままならない生活が長く続いた。のちに地区の公園に自衛隊と水タンクカーが来て、週に何度かポリタンクや空いたペットボトルを持って給水に行き、わずかな水で水補給や料理、風呂、トイレに充てた。おまけに夏休み明け、運動会前の期間である。私を含め、子どもらはその給水に行ってはこの生活にストレスがたまっていたことを友達や家族の顔を見て察する。

とてもではないけれども、「こんな生活はいやだ」と大声を出して言える空気ではない。けれども、皆「明日にはきっと水が私たちの元に届くはずだ、それまで生き延びたいし、それからもこの経験を胸に生き続けたい」と信じていたと思う。

誰が私の命を助けるのだろうか?

それは私でもあるし、家族でもあるし、隣近所やこの地区の人たちかもしれないし、うまく私たちの声が届けば、市や県、県外、はたまた国の外の力で助けてくるのかもしれない。それでも、今は私や家族、この地区の中の人たちでしか助け合えないのだと感じていた。それは給水場に行ってはお互いの体調や気苦労を計っていた時に思ったし、その度にコミュニティの力を確かめ合ったと当時の私はやんわりと感じていた。

「頻発する自然災害に対する生活の再建」

「災害の復旧復興期に立ち現れる多種多様な困難への対処」

これが私の災害の原点であり、のちに私に反芻する、私が発した災害の「こだま」である。

※資料: https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/fs/4579/4c5a5f68002.pdf(最終閲覧日2019年6月30日)

もう直ぐ私が生まれて、四半世紀が経とうとしている。

その間に宮崎や九州、日本、世界各地で様々な災害が起きていて、その度に多様なアクターがどうにか生活を立て直したり、そこに手を差し伸べる行いが繰り広げられている。

九州大学に在学していた時には熊本地震が起き、災害ボランティアとして現場に微力ながら携わる貴重な機会があった。その中で被災した様々な人たちの声を耳にした。

また、九大や京大にいてスリランカに行く機会を得て、津波や洪水、干ばつに立ち向かう人たちを目の当たりにしてきた。

こうしたボランティアや研究活動を契機に多くの人たちと活動の中で関わり、自身の将来を考えてきた。

その中で私が台風14号を被災して発した「こだま」が今響き戻ってきた。

『生活再建や復興に資する対策立案の成功/失敗は何で決まり、各要素がどのように相互作用し合うのか、また、災害を様々な立場の人々がどう受け止め、どのように対処するのだろうか?』

これが私の中でずっと響いていた「こだま」の波長と偶発的に共鳴した。

そこで、私は災害メカニズムの究明だけでなく、多様な困難を抱えた人々の生活に資する災害復興のあり方と政策も模索したいと切に考えた。

そして、これが私が防災・減災のあり方を研究しようとした端緒である。

気づけば、少し自分の「こだま」の物語が長くなってしまった。

筆を置こ

うとした時に窓の外を見ると、まだ雨は降っていた。

けれども、書き始めの頃よりは少し雨は和らいでいる。

ブログを書き始める前、指導教官と梅雨のことを話していたが、梅雨明けもそろそろらしい。

そして、上半期が終わり、明日から7月になる。文月。

京都・祇園に暑い夏が今年もやってくる、鐘の音と囃しの声と鉾の軋みを連れて。

願わくば、災害の少ない夏であるように。

(今私が研究で携わっているフィールドも私の経験に少し触れる部分があり、共鳴するところがある。それはまた今度折に触れてブログで記していけたらと思う。)

 
 
 

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